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投稿

老いを受け入れ幸福に生きる

NHK スペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」という医師で研究者の長谷川和夫さん( 90 歳)の番組を観ました。 曜日を忘れてしまうほど物忘れが激しく日めくりカレンダーを使っているということでした。そんな長谷川さんが、楽しみにしているのが、行きつけの喫茶店で飲む一杯のエスプレッソコーヒー。本当に幸せそうな良い表情でした。この番組で長谷川さんは、 “ 認知症は不便だが、決して不幸でない ” と言われていました。 私も、還暦を過ぎたあたりから急に物忘れが増えて、それが原因で家族との諍いが起こるようになりました。これから認知症とどう対峙していくかを考えていましたが、この番組を観て考えが変わりました。 歳を取ると若い人のようにグランドを速く走ることはできません。脳の機能も同じではないのか。脳の機能が衰えるのは当たり前。認知症は、程度の差はあるにしても誰でもなるもの。それを受け入れていこうと考えるようになりました。 人の名前や昨日の夕食のメニューくらい忘れたって大したことではありません。好きなことを見つけて、 生活を楽しむことが出来れば良いと思います。モノは忘れても何かを考えるという営みは続きます。その人が持っているパーソナリティは、どんな状況になっても決して変わらないと思います。人生100年時代を迎えようと しています。長谷川さんのメッセージを忘れずに、これからの人生を前向きに歩んでいきたいと思います。

ルーの三原則の効用

ルーの三原則という法則を中学の保健体育の授業で、ポン太というアダ名の先生から学んだ。野球の試合で負けるとバットでお尻をどつかれた。今だったらマスコミネタだろう。そのポン太先生も数年前に亡くなった。 ルーの三原則は「筋肉の機能は適度に使うと発達し、使わなければ退化し、使い過ぎれば障害をおこす」というものだ。 中学の頃は、腹筋したり、腕立て伏せをしたり、走ったり、よく運動をしていた。体力が付いてくるのが自分でも楽しみだった。大人になってそういう運動をいつのまにかしなくなった。還暦を過ぎて、この傾向は益々顕著になった。歳をとると体力が衰えるのは、当たり前と考えるようになった。このまま、ポン太先生のように衰えて朽ちるのを待つのかと思うと寂しい気持ちになった。 そんな時、ふと、この法則を思い出した。歳をとるから筋肉が衰えるのでなく、筋肉を使わなくなったから衰えただけではないのか。 お寺の世話人の中に徳井さんと言う人がいる。九十歳を過ぎているのだが、非常にお元気で、お寺対抗のボーリング大会にも毎年参加して私よりスコアが良い。 話を聞くと若い頃から運動が得意で、鉄棒の大車輪などもできたそうだ。今でも週に何回かジムに通って体をきたえているのだという。 そこで、一念発起して、自分ももう一度、体を鍛え直そうと思った。でも、時間がない。そこで、何かをやりながら鍛えるというマルチタスクを考えた。毎日、ドライヤーで髪の毛を乾かす。その時に足の屈伸運動をやることにした。ドライヤーをかけながら毎日30回、しゃがんでは立ち上がるという動作を繰り返す。最初は、かなりきつかったが、次第に楽になり、もう半年続けているが、やらないと気持ち悪いほど習慣化した。 せいぜい、5分位だが、この運動をやるようになってから、駅の階段を登るのが苦にならなくなった。草取りをやっても、よっこらしょということはなくなった。太ももに張りが出てきたようにも感じる。ポン太先生のルーの三原則のおかげである。 これは、筋肉への適用だが、脳にも当てはまるのではないかと最近思えてきた。認知症が社会問題になっているが、脳を使わないことによる衰えではないかと考えている。私が尊敬する、外山 滋比古さんという人がいる。ベストセラーの思考の整理学を書いた人だが、この人も、もう九十歳を過ぎているが、さかんに本を出している。年取ってますます筆が冴え...

マレット変形って知っていますか?(2019/3/20)

金沢八景から朝比奈に抜ける環状4号線は、中世のころは金沢と鎌倉を結ぶ重要な道であった。金沢は深い入江になっていて古くから塩が作られていた。鎌倉にも材木座海岸などがあるが潮の流れが激しく、塩作りには向いていなかった。この道を使って経済の中枢であった鎌倉に金沢から塩を運んだのである。 文献を紐解くと、この道には関所があり通行料を徴収して、その上納金を金沢文庫の称名寺改修に使っていたと書いてある。それほど交通量があった。七百年も前の話である。今では、国道16号線が幹線道路になっているが太平洋戦争の時に横須賀に物資を運ぶために整備されたもので新しい。大道(だいどう)という地名に歴史の痕跡が残っている。近くの葉山にも大道という地名があるが、こちらは“おおみち”と読むようである。 この道にもバスが通った。戦後すぐの頃は木材を燃料にする木炭バスが走っていたそうだが、私が最初に乗ったバスは、すでにガソリン車だった。床は板張りで腐食防止に塗られた油が鼻についた。皮のカバンを下げた車掌さんが鋏で丸い穴を開けては切符を売っていた。ワンマンバスになって降車通知ボタンや音声案内が入って便利になったが車内は殺伐としてしまった。 12月11日、その日も金沢八景までバスに乗った。朝寝坊して家を出るのが遅くなった自分が悪いのだが、こんな時に限ってバスがなかなか来ない。ようやく来たバスに飛び乗り、八景に着くと電車の発車時間が迫っていた。改札まで走らないと間に合わない。シーサイドラインと京急の金沢八景駅をつなげる工事をやっていて足元が悪かった。 改札の近くまで来て小さなコンクリの塊を飛び越えようとした途端に体が宙に浮いたように感じた。次の瞬間、景色がぐるりと回り、もんどり打って倒れた。右肩にカバンをかけていたので体を支えようとして左手の指を地面についた。転んだことを悟られないように急いで立ち上がってズボンの土をはらってホームに急いだ。左ひざが擦りむけて薄くなったズボンから血の滲んだ肌が透けて見えていた。 電車に乗ってケガの状態を確認すると、膝や手のひらの痛みはそうでもないが、左手の中指の第一関節が曲げにくくなっていた。無理をして曲げようとすると関節の部分が白く変色して中で何か小さなかけらが動くような気がした。転んですぐは痛みがなかったが、時間が経つにつれて痛みだした。その日は、地元の...

ミクロの決死圏  平成16年9月9日

ミクロの決死圏  平成16年9月9日 バリウムのどろりとした白い液体を飲んでください、とガラスごしに、めがねをかけた男の人が言った。 胃の中に行き渡るように体がぐるぐる回された。かなりつらい体勢が強いられた。検査の途中で何度も同じ個所のレントゲン写真を取られたとき、めがねの男の 人が眉にしわを寄せたのを見逃さなかった。もしかしたらという思いがよぎった。悪い予感は的中した。何日かして、1枚の白い紙が送られてきた。評価はD。 胃カメラによる再検査が必要ということであった。胃に潰瘍の跡が見受けられるという所見であった。それ以来、急に鳩尾(みずおち)のあたりに重い痛みを感 じるようになった。食欲もめっきりなくなった。何をやっていても胃の中が気になって物事に集中できなくなった。検査までのいやな数週間を過ごした。 検査の場所はバリウムを飲んだビルの3階だった。何人かの中年のおじさんたちが、長イスで待ってい た。その中の1人かと思うと仲間意識が涌いてきたが、喋っている人など1人も居ない。胃カメラが始まるまで随分待たされた。心の準備をするためには、これ くらいの時間は必要なのだろう。緊張のためか血圧はいつもより高目だった。その後、胃をやわらかくするという注射をされた。それから、ゼリーのような麻酔 薬の入った液体を飲まされた。喉に麻酔をかけるということで、1分間は、喉の所にためて、その後2分間はその薬が自然に喉に流れるのを待つようにと言われ た。次第に喉の感覚が無くなってきた。診察室の中からは、うめき声が漏れてくる。いよいよかと思って待っていると看護婦さんに呼ばれた。口の中にスプレー のようなものを吹きかけられて診察室に通された。 中には、優しそうな看護婦さんと、胃カメラを持った白衣を着た若い男の人が立っていた。この人は医者 なのか、カメラを操作する技師なのかと思ったが、もはや、そんなことを詮索する余裕は無かった。まな板の鯉とはこのことだろう。左側を下にして横になり、 口にマウスピースのようなものを入れられると気持ちが落ちついてきた。体がジタバタしても始まらないと悟ったのだろう。目の前に10インチくらいのディス プレイが置いてある。白衣の男は無造作に何の前触れも無く口の中に胃カメラを挿入していった。その一部始終が小さいディスプレイに映し出されている。まる でミクロの決死圏の乗組員にな...

「沈黙の春」 平成16年3月28日

「沈黙の春」 平成16年3月28日 日曜日、晩飯を食たべたあと、ホロ酔い気分で耳掃除をしていた。弾力のある竹の耳かきで刺激している と大変気持が良い。まさに至福の一時である。閑にまかせて耳をホジホジしながら話に夢中になっていると、急に、右の耳にが~んという衝撃が走った。始め は、何が起きたか分からなかった。しばらくすると、キ~ンという音になり止まなくなった。壊れたテレビが発する信号音と同じかん高い音だった。耳の奥がず きんと痛い。耳掃除をしている右腕に子供が激突してきた。その拍子に耳の奥に耳かきが刺さったのだ。耳かきは、絨毯の上に飛んでいた。あまりの痛さに右耳 を抑えてうずくまった。出血はしていなかった。鼻をつまんで息を込めてみると耳からかすかに空気がもれていた。大変なことになった。鼓膜が破れたのかもし れないと、とっさに思った。 それから、右耳が聞こえなくなった。まるで水の中にもぐっているようだ。耳の周りは感覚がなくなっ て、麻酔を打たれたようになっている。色々な音を聞いてみると、特に高い音が聞きとりにくい。自分の声は、こもっているが聞こえてくる。これは、鼓膜から 聞こえているのでなく、体の中から骨を通して聞こえているようだ。テレビの音、特にバイオリンなどは聞き取りにくい。打楽器は比較的聞きやすい。みんなが 寝静まったあとに試してみると、鉛筆が紙にこすれて、カリカリと出すような微妙な音が聞こえないということがわかった。 時間が経って風呂に入ってみても右耳の感覚は戻らなかった。寝るとき、いろんな事を考えた。このま ま、耳が聞こえなくなってしまうのだろうか。エジソンの話を思いだした。エジソンの耳が聞こえなくなったのは子供の頃に新聞売りのアルバイトをしていた時 に、電車に乗り遅れそうになって駅員に耳を持って引っぱられたのが原因と言われている。最初は、片方の耳だったが、反対の耳も聞こえなくなった。エジソン は、耳が聞こえないことを少しもハンディにはせず、歯から伝わる振動音を聞きながら、レコードプレーヤを発明したのだ。そんなことを考えていると少しは気 が楽になった。 月曜日、昨晩は良く眠れた。朝まで耳が痛むということは無かった。しかし、依然として右耳の感覚は麻 痺したままだった。病院に行く事にした。薬局で紹介された耳鼻科に行った。新しいビルで1階がコンビニで2階が病院になっ...

ピロリ菌の話

近くの人が胃がんで亡くなっていることもあり、胃の検診は毎年受けることにしています。前は、バリュームを飲んで胃のX線写真を撮るという検診を受けていましたが、結構撮影が苦し良いですし、影が見つかることが多く、胃カメラをやるケースが増えてきましたので、数年前から最初から胃カメラをやることにしました。 胃カメラも、まともにクチからカメラを入れられるのは苦しいので、一時は鼻から細い管の先についたカメラを使うという方法でやっていました。しかし、鼻が曲がっているということで、その管が入らないという問題が出てきました。 次にトライしたのが、静脈麻酔を打ってもらって、ぼーっとしているうちに胃カメラで検診をしてもらうという方法でした。これは、一番楽で苦しみはほとんどありません。でも、いつも行っている病院は、予約制で数ヶ月待たされるということもまれではありませんでした。 そこで、今回、病院を変えて、麻酔オンリーの検査をやってくれるという診療所に変えてみました。病院を変えるというのは、勇気が必要で初めて行くときはドキドキします。その診療所は、日本橋の近くの古びたビルの2階にありました。呼ばれて診察室に入ると、かなりの年配の先生が座っていました。ホームページの若い先生の写真とはずいぶん違っていました。 あなたの胃にピロリ菌は居るかと聞くので、数年前に薬で駆除して居ません、というと、突然、怒り出して、ピロリ菌が居ないというのは間違いだと言いだして、それから講釈が始まりました。 どうやらピロリ菌の権威らしいのです。二十年くらい研究していると言っていました。 ピロリ菌は、今、六十代、七十代の人の8割くらいは感染しているが、十代、二十代は、ほとんど感染していないそうです。ピロリ菌は、井戸水などに棲んでいて、子どものころに井戸水を飲んで感染するということでした。若い人は衛生状態が良いので感染しないらしいです。じゃ、私の子どもは大丈夫なんですね、というと親から移ることがある、ということでした。親が胃がんだと子どももなりやすいというのは、遺伝とかでなくピロリ菌の感染だ、と言っていました。 胃がんの原因は、ピロリ菌であることは臨床データからも、ほぼ確実で、昔、胃がんの罹患率が高かったのは団塊の世代で、井戸水を飲んでピロリ菌が胃の中にたくさん棲んでいた人たちだということでした。今の若い...

私の還暦からの健康法

私は、四十歳くらいから体力の衰えを感じて、五十歳くらいには家の階段を上るのさえつらくなっていました。というのも、体重が今より10キロほど重く、会社の定期健康診断では、メタボリックシンドロームというレッドカードが出されていました。脂肪肝も指摘され、医者からは、このまま放っておくと長いことないよ、とまで言われました。 貝原益軒の養生訓を読んでいますと病気になってからジタバタしても手遅れで、日ごろの生活の中で病気にならないように養生しないとダメだ、書いてありました。そこで、毎日の生活を変えていこうと思いたちました。 先ず、ご飯の量を決めました。カレーやどんぶりを食べる時もご飯茶わんで測ることにしました。また、毎日やっていた寝酒を止めました。晩酌も毎日やっていたのですが、一週間の仕事を終えた金、土、日の3日間だけにしました。 毎日の生活の中に運動する機会を増やしました。いつも降りる駅より手前で降りて、そこから会社まで歩くことにしました。その頃は、会社が門前仲町にありましたので、金沢八景から京急に乗って都営浅草線の日本橋で降りて、永代橋を歩いて隅田川を渡って会社まで行くことにしました。20分位かかりましたが、乗り継ぎの時間もあるので、東西線の門前仲町からの正規のルートに比べても5分位の違いしかありませんでした。混んだ電車に乗ってイライラするより歩いた方が精神衛生上良いということも分かりました。 このルートは、景色が良くて、永代橋から両国の方を見ると正面にスカイツリーが良く見えます。毎日同じコースでは飽きるので、歩く道を変えていました。歩いているうちに、景色を見ながら歩くのが楽しみになりました。また、駅のエスカレータに乗るのを止めました。会社でも3階以内はエレベータに乗るのを止めました。 これを3年ぐらい続けましたら、知らないうちに体重も減ってメタボの検査にも引っかからなくなりました。体調も良く、医者にかかることも少なくなりました。苦手だった家の階段を上るのも苦にならなくなりました。散歩が好きになり、横須賀の各地で行われているウォーキングにも良く参加するようになりました。 還暦を過ぎましたが、この習慣は今でも続けています。過信は禁物ですが、メタボだった五十代より今の方が体力があるように感じます。これからも、無理をしないで続けていきたいと思います。 養...