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▶鼻血と侮ることなかれ(20240107)

私は、トイレで読書することを習慣にしています。長いときは、3〜40分立てこもって読んでいることがあります。年が明けて、2024年1月2日、いつものように本を2、3冊持ってトイレに入りました。快調にお通じもあり、読書も佳境に入ったとき、左の鼻にさ〜っと鼻水のようなものが流れる気配がしました。手の甲で拭ってみると鼻血でした。急いでトイレットペーパーを鼻に詰めて静かにしていましたら止まりました。元旦に、少し酒を飲みすぎたので、そのせいかと思っていました。 翌日の1月3日もトイレで鼻血が出ました。何もしないのに鼻血が出るのはおかしいなと思って血圧を測りましたら、200近くありました。いつもは150くらいなので、これはヤバイと思いました。でも正月の三が日で病院が休みですので、明日まで静かにしてようと思いました。1月4日は、朝、ふとんに寝ている時に溢れ出るように鼻血が出ました。確実に悪くなっている感じです。 ネットで調べましたら、鼻血はあまり心配することはないが、重篤な病気が隠れていることがあるなどと、嫌なことが書いてあります。耳鼻科の先生の記事が多かったので、近くの耳鼻科に行くことにしました。休み明けなので、混んでいて11時に入って診察が始まったのが15時を過ぎていました。その間に、また鼻血が出るのではないかとハラハラしていました。 先生は、何も言わずにファイバースコープのようなもので鼻を見てシュシュとクスリをかけました。それから血圧を測るように看護師に指示を出しました。別室で家にあるのと同じ電子血圧計で測りました。190くらいありました。先生はその数値を見るやいなや、これは、耳鼻科では治らないから内科に行ってくれと言われました。 よくこんな高血圧を放っておいたものだね、すぐに血圧を下げるクスリをもらって飲んだ方がいいと言われました。鼻血が出なかったら、脳や心臓の血管が切れていて大変なことになっていたかもしれない、鼻血が出たことは幸運だったと思った方がいいと言われました。 実は、会社の健康診断の時に、何年も血圧が高いと言われていました。でも、どうにか食事療法で治らないかと塩分をとらないように心がけてきました。ついに来る時が来たかと思いました。翌日、近くの内科に行きました。水銀の血圧計で測ってもやはり高い数値でした。聴診器をあてて体の様子を見た後に血圧を下げるクスリを処方してく
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アントニオ猪木の言葉

 NHKで「 燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~ 」というドキュメンタリーを観た。猪木の半生と難病と戦っている姿をまとめたものだ。「元気があれば何でもできる!」という猪木の元気がなくなってしまって、今ままで言ってきたことはぜんぶ嘘だったと笑っていた。 経験に勝るものなしという言葉があった。痛さは、他人には分からない。痛いのは俺だ。経験した自分にしか分からない、というのだ。 世界中の美味しいものを食べたが、こうなって感じるのは、いちばん美味いものは、コンビニの冷やし中華だという話もあった。 自分のやりたいことをすべてやった人だなと思った。

長寿の心得

人の世は山坂多い旅のごとし。快食、快眠、快通じ。気はながく、口をつつしみ、腹たてず、心おだやかに命ながらえ。念ずれば、いつか大きな花ひらく。 還暦(かんれき:赤) 六十歳でお迎えのきた時は、やっと人生一回りと言え 古稀(こき:紫) 七十歳でお迎えのきた時は、これから坂の登り口と言え 喜寿(きじゅ:紫) 七十七歳でお迎えのきた時は、せくな老楽これからよと言え 傘寿(さんじゅ:黄) 八十歳でお迎えのきた時は、雨風防ぐ傘さすよと言え 米寿(べいじゅ:黄) 八十八歳でお迎えのきた時は、もう少しお米を食べてからと言え 卒寿(そつじゅ:白) 九十歳でお迎えのきた時は、なんの卒業まだ早いと言え 白寿(はくじゅ:白) 九十九歳でお迎えのきた時は、白髪になっても夢があると言え 百寿(ひゃくじゅ:白) 百歳でお迎えのきた時は、ようやく三桁の山超えたと言え 茶寿(ちゃじゅ:白) 百八歳でお迎えのきた時は、まだまだお茶が飲み足らんと言え 皇寿(こうじゅ:無色) 百十一歳でお迎えのきた時は、天子の後について行くと言え 長寿バンザイ(2021年9月14日)

老いを受け入れ幸福に生きる

NHK スペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」という医師で研究者の長谷川和夫さん( 90 歳)の番組を観ました。 曜日を忘れてしまうほど物忘れが激しく日めくりカレンダーを使っているということでした。そんな長谷川さんが、楽しみにしているのが、行きつけの喫茶店で飲む一杯のエスプレッソコーヒー。本当に幸せそうな良い表情でした。この番組で長谷川さんは、 “ 認知症は不便だが、決して不幸でない ” と言われていました。 私も、還暦を過ぎたあたりから急に物忘れが増えて、それが原因で家族との諍いが起こるようになりました。これから認知症とどう対峙していくかを考えていましたが、この番組を観て考えが変わりました。 歳を取ると若い人のようにグランドを速く走ることはできません。脳の機能も同じではないのか。脳の機能が衰えるのは当たり前。認知症は、程度の差はあるにしても誰でもなるもの。それを受け入れていこうと考えるようになりました。 人の名前や昨日の夕食のメニューくらい忘れたって大したことではありません。好きなことを見つけて、 生活を楽しむことが出来れば良いと思います。モノは忘れても何かを考えるという営みは続きます。その人が持っているパーソナリティは、どんな状況になっても決して変わらないと思います。人生100年時代を迎えようと しています。長谷川さんのメッセージを忘れずに、これからの人生を前向きに歩んでいきたいと思います。

ルーの三原則の効用

ルーの三原則という法則を中学の保健体育の授業で、ポン太というアダ名の先生から学んだ。野球の試合で負けるとバットでお尻をどつかれた。今だったらマスコミネタだろう。そのポン太先生も数年前に亡くなった。 ルーの三原則は「筋肉の機能は適度に使うと発達し、使わなければ退化し、使い過ぎれば障害をおこす」というものだ。 中学の頃は、腹筋したり、腕立て伏せをしたり、走ったり、よく運動をしていた。体力が付いてくるのが自分でも楽しみだった。大人になってそういう運動をいつのまにかしなくなった。還暦を過ぎて、この傾向は益々顕著になった。歳をとると体力が衰えるのは、当たり前と考えるようになった。このまま、ポン太先生のように衰えて朽ちるのを待つのかと思うと寂しい気持ちになった。 そんな時、ふと、この法則を思い出した。歳をとるから筋肉が衰えるのでなく、筋肉を使わなくなったから衰えただけではないのか。 お寺の世話人の中に徳井さんと言う人がいる。九十歳を過ぎているのだが、非常にお元気で、お寺対抗のボーリング大会にも毎年参加して私よりスコアが良い。 話を聞くと若い頃から運動が得意で、鉄棒の大車輪などもできたそうだ。今でも週に何回かジムに通って体をきたえているのだという。 そこで、一念発起して、自分ももう一度、体を鍛え直そうと思った。でも、時間がない。そこで、何かをやりながら鍛えるというマルチタスクを考えた。毎日、ドライヤーで髪の毛を乾かす。その時に足の屈伸運動をやることにした。ドライヤーをかけながら毎日30回、しゃがんでは立ち上がるという動作を繰り返す。最初は、かなりきつかったが、次第に楽になり、もう半年続けているが、やらないと気持ち悪いほど習慣化した。 せいぜい、5分位だが、この運動をやるようになってから、駅の階段を登るのが苦にならなくなった。草取りをやっても、よっこらしょということはなくなった。太ももに張りが出てきたようにも感じる。ポン太先生のルーの三原則のおかげである。 これは、筋肉への適用だが、脳にも当てはまるのではないかと最近思えてきた。認知症が社会問題になっているが、脳を使わないことによる衰えではないかと考えている。私が尊敬する、外山 滋比古さんという人がいる。ベストセラーの思考の整理学を書いた人だが、この人も、もう九十歳を過ぎているが、さかんに本を出している。年取ってますます筆が冴え

マレット変形って知っていますか?(2019/3/20)

金沢八景から朝比奈に抜ける環状4号線は、中世のころは金沢と鎌倉を結ぶ重要な道であった。金沢は深い入江になっていて古くから塩が作られていた。鎌倉にも材木座海岸などがあるが潮の流れが激しく、塩作りには向いていなかった。この道を使って経済の中枢であった鎌倉に金沢から塩を運んだのである。 文献を紐解くと、この道には関所があり通行料を徴収して、その上納金を金沢文庫の称名寺改修に使っていたと書いてある。それほど交通量があった。七百年も前の話である。今では、国道16号線が幹線道路になっているが太平洋戦争の時に横須賀に物資を運ぶために整備されたもので新しい。大道(だいどう)という地名に歴史の痕跡が残っている。近くの葉山にも大道という地名があるが、こちらは“おおみち”と読むようである。 この道にもバスが通った。戦後すぐの頃は木材を燃料にする木炭バスが走っていたそうだが、私が最初に乗ったバスは、すでにガソリン車だった。床は板張りで腐食防止に塗られた油が鼻についた。皮のカバンを下げた車掌さんが鋏で丸い穴を開けては切符を売っていた。ワンマンバスになって降車通知ボタンや音声案内が入って便利になったが車内は殺伐としてしまった。 12月11日、その日も金沢八景までバスに乗った。朝寝坊して家を出るのが遅くなった自分が悪いのだが、こんな時に限ってバスがなかなか来ない。ようやく来たバスに飛び乗り、八景に着くと電車の発車時間が迫っていた。改札まで走らないと間に合わない。シーサイドラインと京急の金沢八景駅をつなげる工事をやっていて足元が悪かった。 改札の近くまで来て小さなコンクリの塊を飛び越えようとした途端に体が宙に浮いたように感じた。次の瞬間、景色がぐるりと回り、もんどり打って倒れた。右肩にカバンをかけていたので体を支えようとして左手の指を地面についた。転んだことを悟られないように急いで立ち上がってズボンの土をはらってホームに急いだ。左ひざが擦りむけて薄くなったズボンから血の滲んだ肌が透けて見えていた。 電車に乗ってケガの状態を確認すると、膝や手のひらの痛みはそうでもないが、左手の中指の第一関節が曲げにくくなっていた。無理をして曲げようとすると関節の部分が白く変色して中で何か小さなかけらが動くような気がした。転んですぐは痛みがなかったが、時間が経つにつれて痛みだした。その日は、地元の

ミクロの決死圏  平成16年9月9日

ミクロの決死圏  平成16年9月9日 バリウムのどろりとした白い液体を飲んでください、とガラスごしに、めがねをかけた男の人が言った。 胃の中に行き渡るように体がぐるぐる回された。かなりつらい体勢が強いられた。検査の途中で何度も同じ個所のレントゲン写真を取られたとき、めがねの男の 人が眉にしわを寄せたのを見逃さなかった。もしかしたらという思いがよぎった。悪い予感は的中した。何日かして、1枚の白い紙が送られてきた。評価はD。 胃カメラによる再検査が必要ということであった。胃に潰瘍の跡が見受けられるという所見であった。それ以来、急に鳩尾(みずおち)のあたりに重い痛みを感 じるようになった。食欲もめっきりなくなった。何をやっていても胃の中が気になって物事に集中できなくなった。検査までのいやな数週間を過ごした。 検査の場所はバリウムを飲んだビルの3階だった。何人かの中年のおじさんたちが、長イスで待ってい た。その中の1人かと思うと仲間意識が涌いてきたが、喋っている人など1人も居ない。胃カメラが始まるまで随分待たされた。心の準備をするためには、これ くらいの時間は必要なのだろう。緊張のためか血圧はいつもより高目だった。その後、胃をやわらかくするという注射をされた。それから、ゼリーのような麻酔 薬の入った液体を飲まされた。喉に麻酔をかけるということで、1分間は、喉の所にためて、その後2分間はその薬が自然に喉に流れるのを待つようにと言われ た。次第に喉の感覚が無くなってきた。診察室の中からは、うめき声が漏れてくる。いよいよかと思って待っていると看護婦さんに呼ばれた。口の中にスプレー のようなものを吹きかけられて診察室に通された。 中には、優しそうな看護婦さんと、胃カメラを持った白衣を着た若い男の人が立っていた。この人は医者 なのか、カメラを操作する技師なのかと思ったが、もはや、そんなことを詮索する余裕は無かった。まな板の鯉とはこのことだろう。左側を下にして横になり、 口にマウスピースのようなものを入れられると気持ちが落ちついてきた。体がジタバタしても始まらないと悟ったのだろう。目の前に10インチくらいのディス プレイが置いてある。白衣の男は無造作に何の前触れも無く口の中に胃カメラを挿入していった。その一部始終が小さいディスプレイに映し出されている。まる でミクロの決死圏の乗組員にな